月に誓う
「傍にいて欲しい」
この一言をどれほど余が言いたかったか、どれほど余が苦しんだか、きっと誰も分からぬ。
残り3時間と聞いて、あからさまに聖は動揺した。どうすべきか迷っている事が傍目からでもよく分かった。
余は、すぐに残ると言ってくれない事に僅かに失望感を感じながらも、ハッとした。
聖には今まで暮らしてきた、生きてきた場所がある。それを簡単に捨てて残ると言えぬのは当たり前じゃ。
そして、例え聖が残ったとしても幸せな未来をすぐには思い描けない事に気付いてしまった。
これから余は国民のために身を粉にして働かなければならない。余の信用を、皇帝としての信用を取り戻すには相当の努力と年月が必要であろう。
その間、聖はどうしているのか。故郷を捨てて残ったにも関わらず、余はなかなか構ってやれない。
脳裏にやつれ果てて、帰りたいと泣く少女の姿がよぎり、息が詰まった。
余の母も、そうであった。父は皇帝としては素晴らしかったが、夫としては、父としてはそうではなかった。
元々身分のあまり高くなかった母は城にも味方はなく、いつも一人であった。そしていつも帰りたい、と言っていた。
自分の生まれた故郷に帰りたいと。城から出たいと、いつも嘆いていた。
そんな母を見て、思っていた。自分は父のようにはならないと。
だが、余は聖を母のようにはしないと言えるだろうか?父と同じ立場になった今なら分かる。そんな保障はないと。
皇帝が第一と考えなければならないのは国であり国民である。国のためなら家族を犠牲としても仕方が無いのだ。
これから余はフィードの神と約束した世界を作ると言う使命がある。その過程で聖を犠牲にしなければならない状況となったら――
瞬間、体が震えた。
考えたくないと思った。だが、答えはもう出ていた。余は、どうあっても、ヴェルと言う個人である前にセイクリードの皇帝なのじゃ。
見たくない。聖が母のようになる姿も、国のために犠牲となる姿も。
ここには聖の他にはフィードはいない。フィードを下等だと考えるのが常であるこの国で、果たして聖は暮らしていけるのだろうか。
見た目では分からなくとも、数年も経てば気付かれる――彼女は、フィードは、あまりにも早く老いる。
聖がフィードだと気付かれたらどうなるか、想像に難くはない。かつての己もそうだったから。そう言う国に自分がしたのだから。
それに、彼女と余では、生きる時間が違いすぎる・・・余の数年が、彼女の一生に値するほど。
刹那の恋に生きる事も出来る。クラウンの父と母はそれを選んだのだろう。だが、余には出来ない。
皇帝としての責任と、心の弱さから。
老いる彼女を、自分を置いて一人、死んでいく彼女を見たくない。彼女が死んだ後、残された自分を想像したくない。
だから、余は残酷な言葉を聖にかけるのじゃ。余が傷付きたくないからと言う身勝手な理由で。
聖が酷く傷付いた顔をしたのが分かるのに、あえて知らないふりをする。聖が少しでも早く余を忘れられるように。
だが、やはり余の心は弱かった。彼女に忘れて欲しくないと、自分の本当の気持ちを伝えたいと思ってしまった。
おそらく聖は余が強く望めばこの世界に残ってくれただろう。だが、それはしてはいけない。それは、言ってはいけない。
刹那の恋をするには、あまりにも愛しすぎていたから。
そんな、余の身勝手さを全て浄化するように、聖は微笑んだ。彼女はきっと分かっていたのだろう。だが、何も言わなかった。
最後は笑顔で、と言う。だが、余は上手く笑えただろうか。聖のそれはとても美しく、今も目に焼きついているのに、きっと余の笑顔は酷いものだったに違いない。
これは別れではない。新たな旅立ちじゃ。だから笑わなくては・・・いつまでも嘆いていては聖に呆れられてしまう。
「ヴェル。少し休憩した方がいい。働き過ぎだ」
クラウンの、冷たいが少しだけ心配の混じった声に促されて、余は書面から目を離した。
いつの間にか日が沈んだらしい。最近こんな調子なので、クラウンによく注意されている。
休憩するようにと言われ、僅かに疲れを感じたので椅子から立ち上がると窓際に歩いた。少し、外を見て気を休めようと思ったのじゃ。
その窓から、ぼんやりと見える月を目にして目を細める。
・・・聖。元気にしておるか?いや、きっともうそなたはこの世にはいないのだろうな。
あれからもう100年になるのだから。この100年、あっと言う間であった。
大変な事ばかりで、こうして聖の事を考えられる時間もあまり無かったのは幸いであったのか不幸であったのか分からぬ。
100年経って、もう聖はいないと分かっていても、まだ余の心の一部はそなたに支配されておる。きっと、これは余が死ぬまで変わらないのだろう。
そなたと約束した、人間とノーブルの仲良く暮らす世界、はまだ達成出来てはおらぬ。だが、今度人間の中の長と会談をする機会が設けられたのじゃ。
これが新たな一歩だと考えておる。ゆっくりとだが、着実に約束は果たしておるから安心せよ。
それと、もう一つの方の約束だが――
クラウンを筆頭に、信頼出来る部下がおり、笑顔が国民に、国に、少しずつ増えていっている。それを見るたびに余は思うのだ。
あぁ、幸せだと。
そなたはどうであったのだろうな。笑顔で眠りにつけたのか?・・・そなたの事だからきっとそうであると思うが、安心するがいい。
もう一つの約束も必ず果たして、そなたをもっと笑顔にさせてやる。だから・・・
「安心して眠っておれ」
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